祖父が亡くなったので、思うことを綴っておきます。
仕事をしていたら、母から連絡がありました。祖父は1か月ほど弱って入院しており、もう余命幾ばくも無い状態と聞いていましたので覚悟はしておりましたが、やはり亡くなったという連絡を受けると、少しは思うところがあります。
祖父は今年の秋には91歳になるはずでしたが、夏が終わる前に逝ってしまいました。安らかに逝ったとのことなので、それは救いです。
祖父は、私にとっては唯一の祖父でした。祖父は父方の祖父でして、私には残念ながら母方の祖父がいませんでした。そのため、一人の祖父しか知りません。自分勝手というか、自由気ままな祖父でして、正直何を考えているかよくわからない人でしたが、それでも私にとっては唯一の祖父でしたので、祖父とはどのご家庭でもこういう存在なのだろうかと思っていました。
祖父は、大正が終わり、昭和が始まって数年経つ頃に生まれました。東北の、雪が深い土地で、農家の長男として生まれたそうです。ただ、幼いころからそれほど体が丈夫ではなかったそうで、その結果、跡取りにはなれなかったそうです。義理の兄に実家を任せるほかなかったそうです。そんな体が弱いとされた祖父が最終的には90歳まで生きたというのですから、大往生だったといって差し支えないでしょう。
祖父は、どうしても通いたかった大学には金銭的な問題で進学できず、18歳から社会人として働くことになります。70年前の進学率を考えると、大学に進学する方が珍しかったと思いますので、祖父もその一般的な一人だったということでしょう。その結果、大学というものには人一倍憧れが強かったようで、私が子供の頃から顔を合わせるたびに「本を読め、勉強しろ、大学に行け」ということをよく言ってました。かといって、大学に行って何を勉強して来いということは何も言わず、どこでもいいから大学に進学すればOKだったようです。実際、私が大学に進学する際は、どこの大学なのか何の学科なのかも聞かず「大学に行けるのか、よかったなぁ」ってニコニコとご機嫌だったことを覚えています。
祖父が仕事の話をすることは少なかったですが、「昔々は四輪自動車ではなく三輪自動車を運転して、顧客先へ向かった」とか、「酒を酌み交わしながら、土地の売買交渉をしたんだ」とかそんな話を酒に酔い、顔を赤くしながら小学生の私に向かって話していたことは覚えています。祖父は当時、電力関係の仕事をしていたそうですが、そんな話をされても小学生が理解するのは難しかったわけです。でも、繰り返し祖父が酔っぱらいながら喋っていたことを記憶しているので、30代も半ばになった私には懐かしく、嬉しい思い出です。
祖父は、とにかく酒が好きでした。日本酒が好きで、常にそればかり飲んでいました。当時、私は車で1時間半くらいの距離に住んでいましたので、よく両親が運転する車に乗せられて、祖父と祖母の家に遊びに行きました。毎月のように行っていたと思います。祖父は、夕飯時には必ず刺身をつまみながら、日本酒を飲み、酔っぱらって、昔々の誰もわからない話を大声で話しては、1人で陽気に楽しんでいました。笑い上戸だったんだろうと思います。相手が、父でも、祖母でも、母でも、小学生の私や弟でも、それこそ誰も聞いていなくても、誰彼構わず1人で話しては「あっはっはっは」と笑って酒を飲んでいました。周囲は大変でしたが、本人は至って幸せそうでしたし、実際に幸せだったんだろうと思います。
でも、こういう酒飲みにはなりたくないな、と思いましたので、自分はそうはなりませんでした。ただ、祖父のように晩酌して1人で楽しめると、ストレスは絶対に溜まらないだろうなと思いますし、あれはあれで幸せを追求する術の1つなのかもしれないと思うと、亡くなった今は少し真似しようかと思ったりします。間違いなく、妻や子供たちに嫌がられるのでやりませんけど。
祖父は、ほかに囲碁や将棋も好きでした。特に囲碁は好きだったようで、高そうな碁盤を持っていました。近所の集会所で、囲碁仲間と囲碁を楽しむのが趣味でした。私は囲碁がわからないので祖父と遊ぶことはついに無かったですが、囲碁で遊べたなら祖父との思い出になったんだろうなと思うと、ちょっと後悔しました。遊びを嗜むということは大事ですね。
祖父は、読書家でした。本へのお金はケチらず、とにかく本には多額のお金を費やしていました。哲学書や歴史書が好きだったようです。一方で何でも読むわけでなかったようで、自分が高校生のときにミステリ小説を読んでいたら「そんなもの読まないで別のを読め」と言われたことを覚えています。あれは確か、あまりに雪が深くて雪かきに応援に行ったときでした。雪が深々と降る、そんな日で、とにかく大変だったことを覚えています。雪国に住むのは大変だし、だから自分は住まなかったわけですが。ミステリ小説を馬鹿にされたのも今となっては良い思い出だし、頭が固い祖父らしいなと思います。
祖父は、変化を好まず、新しいものが嫌いでした。定年後、ちょうどWindows 95を始めとしたパソコンが世の中に出回ったわけですが、祖父は見向きもしませんでした。インターネットにも、携帯電話にも手を出しませんでした。手を出さなくても生きていけたわけですが、そういう姿はあまり面白くなかったというか、自分にとっては参考になりませんでした。自分が新しいものが好きなのは、そういう祖父を反面教師にしているからかもしれません。祖父は昭和だけでなく平成と令和も生きましたが、結局のところ「昭和」という時代を生き続けたように見えます。それだけ、昭和が好きだったんだろうなと思います。そういう祖父も、また思い出です。
祖父は、自分が子供のときには日産のサニーに乗っていました。今は亡き5ナンバーのセダンですね。祖父の運転は危なっかしく、とにかくのんびりというか、マイペースな運転でした。80歳くらいまで運転していたはずですが、あれは誰もいない田舎だったから実現できたというか、本当に事故が起きなくてよかったなと今になっては思います。運転ができない学生の時に助手席に乗って死を覚悟するくらい怖かったので、運転ができる今となっては絶対に助手席に乗ることができないなと思います。もう祖父が運転する車に乗ることはありませんけど。
祖父は、戦争が嫌いでした。「絶対に戦争はしてはならない。ダメなことはダメなんだ」と酔っぱらいながら口酸っぱく言っていました。あと1年、終戦が遅れれば学徒動員される可能性があったそうで、その場合は祖父は若くして亡くなっていたのかもしれません。そうすると、当然父は生まれず、私も生まれてこなかったわけで、色々変わっていたでしょう。別に戦争が好きな人はいないでしょうが、2021年のアフガニスタンの惨状を見ると、やはり平和が一番だなと思います。ただ、その平和を実現し続けていくというのは綺麗事だけでは実現できないところが現実の難しいところですね。なんにせよ、祖父が戦場に行かず、元気に生きていてくれてよかったです。
祖父は、カメラが好きでした。ただ、写真を撮ることよりもカメラ本体を所有していることで満足しているような感じでした。祖父の家に遊びに行く際に、よく祖父はシャッターを切っていましたが、正直どんな写真を撮っていたのかわかりません。祖父が撮影した良い写真というものは見たことがないのです。でも、酔っぱらう前に、祖父はいそいそとカメラを持ってきては、孫たちに向かってシャッターを切るのです。もしかすると、フィルムが入っていなかったのかもしれませんが、今となってはわかりません。そんな不思議な祖父でした。
祖父は、会うたびに「元気か?体は丈夫か?」と声を掛けました。方言だと「さすけねぇか?」と祖父は聞くので、「さすけねぇ、さすけねぇ」と返す自分がいました。そういうやり取りも、もう祖父とはできません。残念です。
自分は、祖父が行きたかった大学に行き、就職し、若くして結婚し、子供が生まれて祖父に曽孫を見せることができたので、自分としては祖父への孝行ができたかなと思います。就職してからは、毎年帰省できたわけではないので、それだけは申し訳なかったですが。
祖父に最後にあったのは、たしか3年前。まさか新型コロナウイルスの影響で、祖父に会いに行けないことになるとは当時は夢にも思っていませんでしたが、現実は残酷なものです。人生において、たった1回のチャンスを逃してはならない、ということが往々にしてあるわけですね。良い教訓です。
残念ながら祖父の葬式にも立ち会えず、自宅から冥福を祈るだけなので、今の世の中の現状を考えて割り切っているとはいえ、寂しいところがあるのが本音です。本当は帰省したいけど、ウイルスの危険性を考えると諦める必要があります。新型コロナウイルスが憎い、というほかないです。
ただ、祖父はコロナウイルスに感染したわけではなく、大往生したのでそれは幸運だったと思います。良かったです。
色々、つらつらと書いてきました。
自分は祖父にとって初孫だったので、よく可愛がってもらえました。自分勝手で自由気ままで相手のことをあまり気遣わない祖父でしたが、それでも自分に対しては「さすけねぇか?」と声をかけてくれました。あれが祖父の愛情だったのだろうと思います。
もう祖父には会えないわけで、寂しい思いもあるわけですが、そのうち線香を上げに帰れる日がきっと来るでしょう。
それまでは「さすけねぇよ、さすけねぇ」と呟きながら、明日も生きていこうと思います。
今までどうもありがとう、じーちゃん。安らかにお眠りください。
そして、天国で好きな日本酒をいっぱい飲んでください。
あなたの孫でよかったです。ありがとう。
本日はそんなところです。よっぺま(@yoppema)でした。